飛騨高山の歴史
縄文〜古墳時代
高山市には縄文時代の遺跡が数多くある。長野、美濃、東海、北陸方面の東西南北方向から高山へ縄文文化が押し寄せてきて、縄文土器様式は各方面の特徴ある様式を取り入れ、複雑、華やかな縄文文化を発展させている。
白鳳・奈良時代
「飛騨匠(ひだのたくみ)」という言葉はあまりにも知られていて、広い職域、広い区域の優れた職人を指すようになっている。大化の改新(645年)では税制が確立したが、飛騨では律令制度以前より顕在していた飛騨の匠の技を、中央政府が都の造営に活用するために制度化し、その代わりに庸、調といった税を免じた。
平安時代〜戦国時代
平安時代、飛騨は平家の支配を受け、平安時代末、三仏寺城(三福寺町)には平時輔(たいらのときすけ)が飛騨の守(かみ)として在城している。鎌倉時代になると、高山市郊外の北方国府町周辺に政治の中心地が移ったといわれる。
戦国時代になると、三木氏が南方から高山へ進出して、高山外記らを攻略し、松倉城を築城。さらに北方の江間氏を滅して飛騨を手中に収めた。しかし、富山の佐々成政(さっさなりまさ)と同盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主であった金森長近に飛騨の攻略を命じたのである。長近は、養子可重と2隊に分かれて三木氏を攻め、天正13年(1585)飛騨を征圧した。
金森時代
天正14年(1586)、金森長近は飛騨国3万3千の石の国主として入府し、ここから金森氏6代、107年の政治が始まる。関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこうずち)1万8千石、河内国金田(かわちのくにかねた・大阪府)3万石が加増されている。入国した長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後三年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。
幕府直轄地(天領)時代
金森氏移封後の飛騨は幕府直轄地となり、代官には関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀(つなのり)が高山城在藩を命ぜられた。
元禄8年(1695)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全て終えて帰藩した。今は「高山城跡」として県史跡に指定され、緑豊かな城山公園になっている。幕府直轄地時代は25代、177年間続き11代までが代官、12代大原彦四郎から郡代に昇格した。
明治以降
明治維新により東山道鎮撫使竹澤寛三郎が入国し、高山陣屋に天朝御用所の高札を立てた。
明治元年(1868)5月には飛騨県がおかれ、同年6月高山県となり、さらに明治4年(1871)筑摩県に移管されるまでの3年6ヶ月間、梅村速水、宮原積の二人の知事により飛騨が治められ、また、明治9年(1876)、美濃と飛騨を合わせた岐阜県が成立し、現在に至っている。
町村制は、明治8年(1875)に高山一之町(いちのまち)村、二之町(にのまち)村、三之町(さんのまち)村が合併して高山町になった。岐阜県では一番大きい町であった。その後、明治22年(1889)には、15,385人で新しい町制が実施され、大正15年(1926)に灘村を合併、昭和11年(1936)に大名田町を合併して高山市になった。昭和18年(1943)に上枝村、昭和30年(1955)に大八賀村を合併している。平成17年(2005)2月1日、10市町村が合併して新高山市が合併したのである。
近代以降の主な歴史を見ると、明治2年(1869)梅村騒動、昭和9年(1934)高山線開通、昭和40年(1965)岐阜国体、昭和46年(1971)飛騨の里オープン。2005年(平成17年)2月1日 大野郡丹生川村・清見村・荘川村・宮村・久々野町・朝日村・高根村、吉城郡国府町・上宝村を編入。
◆引用・抜粋:高山市観光情報
http://www.hida.jp/index.html
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